グローバルナビゲーションへ

本文へ

フッターへ


挑戦する勇気を


ホーム >  沼津本部校 ブログ >  挑戦する勇気を

豊臣秀吉に関する、私の大好きなエピソードの一つです。

極貧の中から身を起こした藤吉郎(のちの豊臣秀吉)は、織田信長に見いだされました。それは藤吉郎には特異な才能があったからです。どんなとるに足りない仕事でも全力で取り組む、苦境に陥っても笑顔を絶やさない。彼のいるところ、常に明るい空気が漂っていました。そして経理の能力、敵方の武将を人情で抱き込んでしまう謀略※1の能力、めざましい勢いで頭角を現した藤吉郎はやがて足軽から侍大将に、そして一方面の司令官に抜擢※2されました。
彼の主君、信長はまぎれもない天才でした。1570年、信長は、越前(福井県)の朝倉氏を攻めるため、大胆不敵※3な作戦を実施します。3万の大軍を極秘のうちに移動させ、朝倉領の入り口、敦賀に一気に集結させました。信長は、戦争の勝敗に「速度」を初めて持ち込んだのです。降ってわいたような信長軍の出現に、朝倉軍は大混乱に陥り、勝利は目前に見えました。
ところがその時、異変が起きました。信長と同盟を結んでいたはずの浅井長政が突然裏切り、信長の背後を突いたのでした。一瞬にして状況は逆転、全軍が壊滅の危機に陥ってしまいます。しかし、この時の信長の行動は、実に鮮やかでした。数名の供を連れただけで馬に乗り、稲妻のように戦場から消えてしまったのです。「大将一人さえ生き延びれば反撃の機会は訪れる」実に近代的、合理的な判断でした。(ただ、人情という面から言えば、この合理的すぎる性格が、冷酷※4さにつながり、後に本能寺の変で信長自身を滅ぼすことになるのでしょうか。)
一方、残された将兵は途方にくれるばかりでした。何とか危険に満ちた戦場を脱出せねばなりません。誰かがしんがり(退却の時、最後に残って敵を防ぐ役)をつとめねばならないのです。しんがりの戦死はほぼ確実、武将たちの会議は重苦しい沈黙※5に包まれていました。
そこで、一人の男が名乗り出ます。「拙者※6がつとめましょう」それが藤吉郎でした。一同はあっと息をのみました。満座※7の注目の中、藤吉郎は明るく「ご一同、あとはこの藤吉郎にお任せ下され。ごゆるりとお引き揚げあそばすよう。」藤吉郎一世一代の大ばくちです。彼はものすごい勢いで出世しただけに、ねたみ、しっとを受けることが多くありました。「殿のご機嫌をとって…」「戦場での槍の働きがあるでもなし…」戦場で敵を打ち破る勇敢さを見せる場面は、小兵の藤吉郎にはなく、それが彼の経歴の大きな穴になっていました。だからこそ、「ここぞ」と考えたのでしょう。自分の命を放り出すようなまねをし、評価を逆転させる賭けに出たのでした。しかも、底抜けの明るさで「勇将」を演じて見せて…。

「感謝いたす」「その方こそ真の武士」「達者でな」武将たちは口々に藤吉郎に言葉をかけ、その勇気をたたえました。藤吉郎は恩着せがましい様子もなく、さわやかに彼らを見送ります。皆の心中、藤吉郎への印象は一変しました。まさに彼の勝利です。だが、ここで戦死してしまったらもちろん後の太閤、豊臣秀吉はありません。彼の決死の勇気は、人々の心を突き動かし、幸運をも呼び込んでしまったのです。そこへ 一人の若い武将が藤吉郎の前に進み出ました。「貴君のようなあっぱれな武士をここで死なすわけにはゆかぬ。それがしが助太刀※8いたそう。」信長の同盟者としてこの戦場に来ていた、若き日の徳川家康です。藤吉郎は断りますが、家康は聞きません。とうとう二人が手を取り合っていくさに臨むことになります。歴史上最強の武将二人の連合軍が成立した瞬間です。見事な手配りで二人は傷つきながらも生きて脱出に成功します。二人は涙を流し、抱き合って幸運とお互いへの感謝を表したそうです。そして、秀吉は天下人になってからも、この戦いのことを思い出し、しばしば涙ぐんだといいます。

人生には勇気と決断力が必要な場面がしばしばあります。そして、真の勇気は勝利を、そして幸運を呼び込みさえします。秀吉は並外れた強運の持ち主でしたが、それは、座して幸福を待つのではなく、挑みかかるように積極果敢※9に行動しての結果だったのです。
みなさんの人生にも運命の分かれ道というべき場面が数多く訪れるでしょう。「うまくいかないものだ」「次こそは幸運を…」そうではありません。自ら立ち上がり挑戦する精神を、そして勇気を未来あるみなさんに持ってもらいたいと思います。次の試験も、高校入試も、勝利は常に勇敢に立ち向かったものに訪れます。私たちはそれを応援し続けます。


※1ぼうりゃく 2ばってき  3だいたんふてき 4れいこく 5ちんもく 6せっしゃ 7まんざ 8すけだち 9せっきょくかかん